物語

2008年6月21日 (土)

真摯なる闇の祈り

プロローグ

 1902年8月。
 月も出ていない、暴虐なまでに蒸し暑い夜。
 その季節につきものの大風にあおられ、大きく進路をはずれた軍船。
 船が破損したため、東洋の小さな小島に不本意ながら立ち寄った彼らは目にする。
 小島の住民が行う、深夜のまがまがしい儀式。
 燃えさかる松明からは、人の髪が燃えるような、ひどく嫌悪感を覚えさせる臭いがしていた。
 人に似た松明の明かりが明々と照らし出す、儀式の中心にある神の偶像。木彫りのその偶像は、蛸のような頭と、蝙蝠の翼をはやした異様な風体。
 そして、島民たちはそれに似通った無数の触腕を頭部に持っていた。
 兵士たちは恐慌にかられ、島民に向かって、発砲した。
 船には兵士がたくさん乗っており、島民を惨殺するのに、十分だった。
 生臭い血の臭いが立ちこめる中、兵士の一人がその偶像をむんずと掴む。
 華奢な島民がその兵士にすがるようにしたが、兵士は鉛の玉をその異形の頭に撃ち込んで、奪い去った。

 生き残った数人の島民は嘆いた。
 仲間の死を?
 家族の死を?
 いやいや、まさか。
 彼らが嘆いたのは、神の姿を映した木彫りの像が奪われて、もはや神との和合をはかれなくなったこと。
 彼らは嘆き続ける。
 半世紀が過ぎても、飽くことなく。
 一世紀が過ぎても、さらに激しく。

 神の像を返せ。
 我らの神を返せ。

偶像を求める者

 実のところ、これは、かの義理堅い、古い神の物語ではない。
 この物語は、仕える相手すら嘲笑し、自分の姿にさえ固執することのない、だからこそ千の姿を持つというあの神の物語なのである。
 では、この物語のキィーパーソンを紹介しよう。
 斉藤伸行。38歳。大学で神話学を学び、所属する大学で来春から助教授になるという内定を貰った男だ。
 斉藤は車で東京の自分のマンションに向かっていた。
 季節は春の終わり。昼間だというのに、曇天のため薄暗く、風はなぜか切れるように痛い。
 車内にいてさえ、暖房をつけてしまうぐらいだった。そして、それがなかなか効いてこず、ハンドルを握る斉藤の指先が冷たくなってきた。温風が出ているというのに、足元もかじかんできて膝が痛む。
 異常気象にも慣れたが、今日のこれは度が過ぎている。
 彼は昨年死んだ祖父の家から帰るところだった。
 戦争中、中国に行っていたこともあるという祖父はいろんなものを現地で手に入れてきていた。祖父は歴史の研究もしていたので、目も利く。
 身内たちはそれぞれ金目のものを漁っていき、斉藤には遺言が残されていたおかげで、研究用らしき一式のものが譲られることになった。
 ガネーシャの木像と、それに関する資料らしい書類の束。彼らには使いようがないだろうし、ガネーシャ像は見たところ真新しく、古物商に持っていっても、いい値はつかないだろう。
 そもそもつなぎ目が……。
 斉藤は単調な運転に、ついつい気を散らしながら、ふと木像を思い浮かべてつなぎ目があったことに気がついた。
 サービスエリアで、車を止めて。
 後部座席に置かれたガネーシャを確認する。
 ガネーシャとはインドの神で、誕生したときに居合わせた邪眼の神によって首が引きちぎられ、象の頭を代わりにすげられて誕生した神である。異相の多いインド神話の神々の中でも、群を抜いて奇異な姿。
 その真ん中、縦に入っているそれを傷のように思ったのだが、よくよく見れば確かにつなぎ目。左右の木目がきちんとあっているというのに。
 書類の上の方の頁を確認すれば、確かにインド神話にまつわるレポートだった。
 だが、なぜインド神話なのか。中国神話や仙人の像ならばまだ祖父らしいというのに。
 答え。
 この木像はフェイクで、中に何かを隠している。
 書類を何枚もめくれば、間に挟まっていた、黒革のすり切れた手帳が落ちてきた。その最初の頁に。
「入手。1944年。中国人古物商陳氏より。
 入手より今年で十年目となるが、中国には該当する神話、妖怪譚はないもよう。名前がわからないことが、致命的。神像であることはまちがいないとの、陳の言葉をうたがうべきか」
 とあった。
 斉藤は自宅まで帰るのが待ちきれず、綺麗なつなぎ目に、一番薄い、自転車の鍵の先をねじり入れた。あっさりと割れる木像。
 中からは、古くぬめった質感の、ガネーシャ以上に異形の姿の像。無数の触腕を生やし、翼を持つ。像として形作るさい、丸みを持たせているが、それによって愛らしさや可愛らしさはけっして生まれない。
 斉藤は息を飲んだ。これが何を象った像かを知っていた。
 海底の底で、死に等しい眠りにつく、水神。
「クトゥルー像……」

 その神の名が知識人の中に広がるようになったのは、ここ二十年のことである。情報はアメリカからだった。中国で手に入れた祖父が、中国神話を調べていたのだから、名前に行き着かなかったのは無理もない。

 斉藤は我に返ると、急いで元通りにガネーシャを像にかぶせた。
 像からは濃厚な妖気が車の中に立ちこめていた。寒いのに、背中はたっぷりと汗をかいていた。
 遺産として、なぜこんなものを。
 像は助手席に移動させた。
 とてもではないが、背後においておく勇気はなかった。
 この魂までも凍らせるような冷気は像から出ていた。
 車の外に出てみれば、曇ってはいても、汗ばむ陽気だった。
 エンジンをかけ直そうとして、手が震えていることに気がつく。足もがくがくして、踏み込んだ足を適度に上げて半クラッチにする、ということができない。
 そもそも体に染みついていた運転動作が真っ白になり、踏んでいるのはアクセルだった。それに気がついて、斉藤は本能的に右足に力を込めて、ブレーキを踏み続けた。
 車は動いてはいなかったが、こんな禍々しいものが車にある以上、何が起きても不思議はない。
 結局、3時間近くもサービスエリアで、みずからの体が動けるようになるのを待たねばならなかった。ここが高速道路でなかったならば車を乗り捨て、タクシーを捕まえて帰るのに、と思った。運転代行なりなんなり、業者を呼べばよかったと気がついたのは、へとへとになって自宅に帰り着いてからだった。
 像は捨てられなかった。車に置き去りにもできず、部屋にもってきた。
 部屋は一人暮らしにしては広い。が、二人、三人と暮らして行くには、場所がない。専門書を詰め込んだ本棚で居間も、寝室も埋まっていた。トイレまでも、本棚が浸食しているのだった。
 かびくさい古書を守るため、直射日光が入らないようにされた窓は、昼間さえもこの部屋を暗くしていた。
 しゃれた硝子の卓にはレポート用紙が散乱し、ずいぶん昔の流行で止まってしまったCDの置かれた棚にはうっすらとほこりがたまっている。
 読んでなさそうな新聞と雑誌がくくられて、廊下の隅に重ねられている。
 台所にはレトルトの空き袋が詰まったゴミ袋。どんぶりと、大皿、大きなコップ、湯飲みが一つずつ、水切り用のかごにおいてあり、シンクには他に何もなかった。食器棚には皿もコップも、カップもたくさんあるが、硝子戸がきっちり閉められているにもかかわらず、ここにほこりがつもっているところを見れば、その四つの食器のみでなんとでもできる食事しか家ではとっていないのは明白だった。
 それはつまり、友人や彼女、家族といった存在さえも、この家で食事をすることがないということを雄弁に物語る。
 斉藤は冷蔵庫から缶ビールを取り出したが、一口飲んでやめ、棚の下から未開封のウイスキーを取り出した。
 湯飲みに注いで、一息にあおったが。
 ひどく気持ち悪くなって、シンクにはき出した。濃いアルコールを胃が受け付けなかった。食欲もない。眠れそうにもない。この恐怖から気を紛らわせたいのに、酒さえ受け付けない。
 斉藤は久しぶりに絶望的な気分になった。
 たかが、邪神の像。邪神そのものがいるわけではない。
 なのに。
 斉藤は激しい不安に襲われて、居ても立っても居られず、早足で玄関に向かった。
 鍵をかけ忘れた気がしたのだ。
 鍵が開いていると、変な物がこの部屋に押し入ってきそうな予感がした。ふっと気がつくと、外は禍々しい魔界になっているかもしれない。
 先ほどから動悸がする。頭もがんがんして、考えるはしから、霧散していくような。息が吸えていないような、大気に酸素が半減しているのではないかと思うような、そんな息苦しさが胸に重く巣くう。
 結論としては。
 鍵はちゃんとかけてあった。
 斉藤はほっとした。
 それでも、チェーンをかけた。
 原始の、そして未知の恐怖故に。
 腕に鳥肌を立てながら、思い出す。
 米国のインスマスという街が焼かれた事件はいつだっただろうか。小さく新聞に載っていた。インターネットで調べれば、すぐに出るだろう。
 腕を強くさすりながら、居間に戻り。
 斉藤は心臓をあやうく止めそうになった。
 背の高い、浅黒い肌の青年が部屋の中に立っていたからだ。手にはあの像を持っている。
「ど、どーやって入った?」
「お構いなく」
 かみ合わない答えが返ってきた。
 目鼻立ちの整った、怜悧な美貌。人を、いやこの世のすべてをバカにしているかのような、傲慢な瞳。まるで夜のような漆黒の長髪が無造作に床までたれて、部屋に濃厚な妖気を生み出している。
 斉藤は喉を押さえた。
 その男から発せられるものと、あの像からにじみ出しているものとで、人間の彼にはもはや耐え難い空気になっていた。
「おっと、失礼。人間になったのは久々だから加減がわからなくて」
 ガネーシャが神像の邪悪な妖気を封じ込めたように、その男もまた人の殻の中に己のすさまじい妖気を完璧に封じ込めた。
 それでも斉藤は障気に当てられすぎて、床に転がりのたうち回った。空気が喉の真ん中で塊になって、それ以上進むのを拒否している。いや、体が、その空気をそれ以上体内に入れるのならば死んだ方がましだと、判断したらしかった。
 胃は空っぽだった。胃液を吐く。
 むせる。
 涙が出てきた。
 死ぬかもしれない。
 いや、死ぬだろう。
 斉藤は半ば、その覚悟をきめた。
 侵入者は嫌に人間くさく頭を掻くと。
「弱ったな。これでどうだ?」
 と、痛烈な蹴りを斉藤の背中に食らわせた。
 斉藤はひときわ激しく、げほげほっとむせた。おかげで、喉に支えていた粘った妖気の塊が体外に吐き出された。
 やっと息が吸えた。
「話ができそうだな? この像を譲って欲しい。本来の持ち主たちが、これを失ってずいぶん経つのに、いまだに泣き続けていて、うるさくてかなわない。カダスにまで泣き声が陰鬱に響き渡る」
 涙とヨダレで顔をぐちゃぐちゃにしながら、斉藤は顔を上げた。
 殺してもっていけばいいのに、なぜ許可を求めるのか、わからない。だが、どうやら、この邪神は、斉藤が承諾せねば像を持ち去れないらしい。
「いやだ、渡さない」
 斉藤の口をついたのは、そんな言葉だった。
 その男はちょっとだけびっくりしたように、目をかすかに大きく開いた。
 斉藤は神を信じない。
 もっとはっきりいえば、斉藤は道徳も信じない。天国も地獄も。
 何も信じられない。
 だが、ここに神が在るという証拠が手に入った。
 どんな宗教の神でも、結局信じられず僕になれないでいた斉藤は、神が欲しかった。それが邪悪なものであったとしても。
「代価は渡そう」
 蠱惑的な声で、その男は告げる。
「黄金も、太古に封印された禁断の知恵も、美しい女も、名声も、何もかも望むままだ。言うがいい。かなえよう」
「女には興味はないし、死ぬまで安眠と引き替えの、禁断の知識などいらない。金は……とりあえず必要ない。名声も、そんなに必要ない」 
 黒い目が見透かすように斉藤を見つめた。
「ああ、なるほど」
 人を飲み込む、大蛇のような笑みが浮かび、斉藤は死を覚悟した。
「考える時間を与えよう。じっくりと考えることだ。それは、おまえの神にはならないのだからな」
 その言葉は奈落に突き落とされたような絶望が斉藤を蝕んでゆく。
 邪悪な神さえも、自分のものにならない。
 男は唐突に現れたときのように、唐突にいなくなった。
 ソファの上には、ガネーシャ像があった。だが、それは黒ずんでいた。
 一気に腐食し始めていたのだった。
 斉藤はのろのろとそれに手を触れた。触れた箇所からぼろぼろと崩れていく。それは厭わしい悪臭を放ち、ねばねばしていた。
 このインドの神像はそう長くはこの邪神の像を封じてはいられないことだろう。
 斉藤はああと、ため息をついた。
 考える時間はあまりにも少ない。

 その男が斉藤の前に再び現れたのは、翌日のことだった。
 昼日中、大学の食堂でだ。
 斉藤は窓からも廊下からも離れた、長い机の一端に腰をおろして一人で食事をしていた。食べるものはいつも同じで、焼き魚定食。だが、箸が進まず、胃が働かない。あの像は部屋に置いてある。触ったりすれば、腐った木がはがれおち、隠されていた像が出てきてしまう。そうなったら、ひどい障気が部屋の中に蔓延して、斉藤の体はこれよりもっとひどく病むだろう。
「一人か」
 斉藤はその声を聞いて、ぞっとした。
 だが、もっとぞっとしたのは、これだけの美麗の外国人が学園内にいるというのに、生徒も教職員もまるで無関心に食事をとっている、ということだった。
 人間はしっているものしか、見えないのだという説がある。
 斉藤はあのとき、たまたまあの邪神および、不思議な事件のことについて奇想していた。だから、この男が、いや、この神がみえたのだ。
 人型をしていても、人ならざるこの男を、予備知識のない普通の学生や、教師たちは見ることはかなわない。
「他人とはそりが合わない。おまえは他の人間、社会すべてを、見下しているから。身近に誰かを寄せ付けることもない。おまえは絶望しているから、自分の子供というものに極端に嫌悪感がある。他者が煩わしくて仕方がない」
 凛とした声が神託を落とす。ひんやりとした、魂を凍えさせるような声だった。
「よわったものだな。おまえは私がみえるが、アレを所有するつぎのものが、私がみえるか確証がない」
 間近から、見下ろされて、心臓が凍りつきそうになる。
「年々、神をみる者が減っていく。不思議な話だ。おまえたち土塊に姿を与えた神が去り、新たな神がきたというのに。それを拒む者が多い」
 対面に男が、神が座った。
 食事はもう喉を通らなくなった。
 あの像を一夜置いただけでもう、限界だとわかっていた。
 神がみえるとは、神の影響を顕著に受けてしまうと言うことだ。皮肉な話だ。金にしか興味のない、叔父叔母や父母たちならば、この神像を持っても、なんら悪影響を覚えなかったかもしれない。おそらくは、癌か何かで早めに死ぬだろうが、この太古からの恐怖を味合わずにすんだことだろう。
「渡そう……」
 そんな連中の手に渡るよりは、返した方がいい。
 燃やすとか、破壊するとか、そういった考えが浮かばないでもなかった。しかし、それを実行するだけの気力がない。
「だが、聞きたいことがある」
「答えよう」
 楽しげな、軽やかな声だった。

 マンションの一室の空気は、次第にまた妖気を増してきていた。
 斉藤は何度目かの、死を覚悟した。
 掠れた声で、神に問う。
「この像は人間に返すんだろうか?」
「元・人間だな。今や、姿はその像とよく似ている。長く、精神の和合が続いて、その神は信徒に力を分け、力は彼らの姿を主に似せてゆく。おまえたちは彼らを『人間』と思うことはあるまい」
 ソファーに身を沈ませながら、寝室に置き去りの像を思う。力が入らなくなっていく。息はかろうじてまだ吸える。が、呼吸するたびに肺の中の房が一つ一つ潰され、腐っていく気がした。
 腐敗臭は自分の内側からもしているのだろうと、斉藤は息を吐きながら思う。
「異形にされてまで、なぜ崇拝……し続けるんだ?」
「そもそも、受け取り方、認識が違う。神に似せられていくのは、彼らには『呪い』ではなく『奇跡』。神からの『恩恵』なのだから」
 まとまらない思考の中で、偶像ではなく、神の恩寵が欲しいと、斉藤は痛烈に思った。
 自分には欠片すら訪れない、神の奇跡。神の愛。宗教的恍惚。何もかもが、自分とは無縁だった。
 欲しいわけではなかったのに、人間の姿を失ってもそれを快楽に、深い悦び思えるほどの情熱と忠誠が、滑稽さを通り越し、羨ましく、妬ましく……。
 神を求めて、斉藤は震える手を伸ばした。
 神は目の前に居た。
 無貌の神が、ここに具現している。
 袖を掴まれた神は嘲笑った。
「一時ならば、神を手に入れた気分を与えてやってもいい」
 迷子になった子供が母親にすがりつくように、斉藤は目の前のものにすがった。

 絶望で満たされていた小さな島は、今は歓喜と熱狂に包まれていた。
 もはや人ではなく、亜神になっている信徒たちに、その神は像を渡した。
 彼らは歓喜した。
 百年を越えた絶望の日々が、今終わったのだ。
 感謝された神は、皮肉そうに笑った。
「嬉しいか」
 神像の代価にと、一番若いらしい信徒がその身を投げ出してきたから、彼はその心づくしを受け取った。
 柔らかな腹を鋭い爪で引き裂いて、中から腸を引きずり出す。
 臓腑をえぐり出しても、深い苦痛を信仰の快楽に変換し、歓喜に震える魂。ねじ込まれた腕に、鼓動を直接伝える。心臓は赤く、黒く、激しく脈打ちながら、外気にさらされる。
 自分に捧げられているわけではない信仰。
 彼は投げやりな笑みを浮かべたまま、最後にその生け贄の頭を引きちぎって踏みつぶした。
 まだ、血は赤かった。熱かった。ねばねばとしていた。灰色の脳漿が地面を這い広がっていく。
 異形の姿は、ここまで破壊されるともはや人か化け物か、一目では判別ができない。

 足りなければもう一人。
 捧げましょうぞ。
 神との和合がかなう、この喜びをくださったあなた様に、何人でも捧げましょうぞ。
 壊してくだされ。
 食らってくだされ。
 いかようにもなさってくださいませ。

 神は彼らに背を向けた。
「私もあの男に、真の代価を払ってやらねばな……」
  

| | コメント (2) | トラックバック (0)